2020年8月21日
サイバーの あの日あの時 パート8:1998年~2000年(3つの初めて:構造改革、海外オフィス、パートナー会議)
会社の創立から数年間は、とりわけ厳しかった。まさに身を粉にして働かなければならなかった。それはまさに、雄飛の時のための雌伏の時期だった。1997年にKL(訳注:Kaspersky Lab)が本登記された後、我々はほとんど何もない状態で多くを成し遂げた。資金もリソースもないに等しかったが、サイバーセキュリティのコンベヤーは待ったなしで流れていく。新しい技術が必要とされ、市場は新製品を待ち望んでいた。そんなわけで我々は骨身を削ってこつこつと、週末もほとんど休むことなく働き、休暇などめったに取れなかった。どんなことに取り組んでいたのか?例を紹介しよう…
1998年6月: Chernobyl(CIH)ウイルスの世界的流行。我々以外のアンチウイルス企業は、このウイルスに気付いていなかったか、特に気に留めていなかったか、休暇中だった。このウイルスを検知するだけでなく、感染したシステムを「治癒」する製品を持っていたのは、我々くらいのものだった。インターネット(ロシア語以外にも対応したネットワーク!)上には、我が社のサイトへのリンクがいくつも存在していた。新たな脅威にいち早く対応したこと、さらに、追加の対処手順を備えた「クイックアップデート」をただちにリリース可能であったことが、このような形で報われたのだった。このウイルスは巧妙に自分自身をWindowsメモリー内にインストールし、ファイルアクセス呼び出しをフックして、実行可能ファイルに感染するものだったが、こうした動作に対応するにはカスタム設計の解析プロセスが必要であり、柔軟なアップデート機能なくしてはこのようなプロセスを配信することはできなかった。
実に厳しい日々だった。だが、結果は出ていたし、成長もしていた。そして2か月後、まったく思いもよらない(運命的な?!)救いの手が差し伸べられた…
1998年8月:ロシア財政危機 featuringルーブル下落、さらにロシアの債務不履行。全体的にほとんどのロシア人にとって不幸な出来事だったが、我が社にとっては、とんでもない幸運だった。国外のパートナーが皆、外貨建てで前払いしてくれたのだ。我々は輸出する側だった。運用通貨は大幅に下落したルーブルで、収入はドル、ポンド、円など。おかげで、懐に余裕ができた!
だが、財政危機の真っただ中で「運よく」手にした栄光に、我々は満足しなかった。この時期を利用して、我が社は熟練の(高給の!)管理職を新たに採用した。ほどなくして商務、技術、財務担当のディレクターが揃った。その少しばかり後には、中間管理職の雇用も開始した。これは我が社初の「構造改革」だった。これを機に「チーム」は「会社」になり、和気あいあいとした関係は形式ばった組織らしい構造、上下関係、責任体制に取って代わられた。構造改革は痛みを伴うものになったかもしれないが、ありがたいことにそうはならなかった。家族のようだった時代をことさら懐かしがることもなく、我々は順調に進んでいった。
// この種の再編・構造改革・「再構築」については、マイケル・ハマー(Michael Hammer)氏とジェイムズ・チャンピー(James Champy)氏による書籍『Reengineering the Corporation』(日本語版:リエンジニアリング革命―企業を根本から変える業務革新)を強くお勧めする。実に良い本だ。このほか役立つ書籍についてはこちらにまとめてある。
1999年には、最初の海外オフィスを英国ケンブリッジに開設した。外国企業にとって英国市場ほど参入が難しい市場はそうないだろうに、なぜ、あえて英国を選んだのか?実際のところ、単なる偶然だった(詳しくは後で説明する)。ともあれ、どこかで、何としてでも、初めてのことに踏み出す必要があった。多くの過ちや学びのあった英国での経験は、他の国々での事業展開の際に大いに役立った。
最初のプレスツアーはロンドンで開催された。折しもITセキュリティ会議(InfoSecurity Europe)のため、我々は英国の首都を訪れていたのだった。そのプレスツアーで、英国にオフィスを開設する意図があることを、我々は堂々と発表した。記者たちは当然な疑問を持った。英国内には、すでにSophos、Symantec、McAfeeなどが定着しているのだ。そこで、我が社がいかに革新的であるかを述べ、独自の技術と製品について語り、それ故に先ほど名前が挙がったどの企業よりも優れているのだと主張した。この主張は、少なからずの驚きと関心をもって受け止められた(これ以降、ばかげた質問を受けることもなくなった!)。私にとって英語話者の聴衆に向けた初のスピーチも、やはりロンドンで、InfoSecurity Europeでのことだった…聴衆はたったの2名。後で分かったのだが、彼らは、我が社のことをよく知っているVirus Bulletinの記者だった!講演に空席があったのは、これが最初で最後だった(詳細はこちらをご覧いただきたい)。
我が社初のパートナー会議については、こんな経緯があった。
1998年から1999年にかけての冬のある時、我が社のOEMパートナーであるF-Secure(当時のData Fellows)のパートナー会議に招かれた。ここで我々はパートナー会議の全体的な様式を学び、それがいかに素晴らしいアイデアであるかを知った。皆が集い、技術や製品についてのあらゆる最新情報を共有し、パートナーが抱える懸念や問題に耳を傾け、新たなアイデアについて話し合う。ただ集まるだけではないのだ。それから1年もしないうちに(1999年)、我が社は自社のパートナー会議を開催し、欧州、米国、メキシコからパートナー15社ほどをモスクワに招いた。これは、赤の広場とクレムリンに隣接する革命広場で撮影した、そのときの集合写真だ。
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