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サイバーの あの日あの時 パート6:メディア対応のこと

先週ふと気づいたのだが、ロックダウンによる外出規制と自己隔離の生活は、もう1年の4分の1も続いている。自宅にこもる3か月の間、外出したのは、誰もいないオフィスに数回立ち寄ったときと、同様に隔離生活を続けている家族と週末ごとに別荘で過ごすときくらいだった。皆さんと同様、非日常の日常だ。私の場合、飛行機や空港とは無縁になり、ホテル滞在も会議もスピーチもなくなった。要するに、移動はほぼなくなったということだ。

ただし、何ごとも見方を変えてみることはできる。この3か月間、私たちは皆、2億3千万km以上(地球が太陽の周りを回る軌道の4分の1)を移動していたのだ!しかもこれは、太陽系そのものが驚異的な速度で動いているという事実を考慮に入れていない。ロックダウンが始まってからも対して変わっていないのは、業務上の会議だ。すべてオンラインに移行したにすぎない。もちろん、業務全般も通常どおりに動いており、生物学上のウイルスによる影響は受けていない。

だが、ロックダウンの話はこのくらいにしよう。皆さんも、もうこの話題には飽き飽きしていることだろう。というわけで、サイバー関連の思い出語りを続けることにする。今回は、新聞や雑誌、ラジオ、テレビ、さらには各種イベントで受けてきた取材の話だ。CeBITについての回想をまとめているとき(『サイバーの あの日あの時 パート4』を参照)、遠い昔のCeBITで「広報窓口」担当として1週間のインタビュー地獄を味わったことを思い出したのがきっかけになった。考えてみれば確かに、報道陣に対して、あるいは講演などで話をした面白い経験については、いろいろと語れることがある。そんな楽しい話、変わった話をいくつか紹介しよう。もちろん、何点かの写真も一緒に(明るさと画質を上げてある)。

メディアにまつわる話と言えば、規模も趣向もさまざまなあれこれが思い出される。ほとんど無人の会場も、満員のスタジアムも経験した。無名の小さな地方メディアから、誰でも知っている超大手の国際的メディアコングロマリットまで相手にしたことがある。有名大学で、あるいは専門技術者が集まる場で専門的な講義を行ったこともあれば、ドレーク海峡を越えて南極に向かう船の上で算術の不思議について形式張らない講演をしたこともある。私、ユージン・カスペルスキーにとって、さまざまなシチュエーションでの講演はお手のものだ。

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サイバーの あの日あの時 パート5:1996年(大変革の年)

今回も、我が社が控えめに創業してから今日の姿になるまでの歴史をさらに振り返ってみたい。ところで、この『サイバーの あの日あの時』シリーズが続いているのは、ロックダウンのおかげだ!そうでもなければ、こんな風にサイバー関連の思い出話をとりとめもなく続ける時間はなかっただろう。

このシリーズを初めてご覧になる方のために、これまでの記事はこのとおりだ。

パート1
パート2
パート3
パート4

では、パート5を始めよう。1996年。まさに運命的な分岐点となった年の話だ。

第1に、私が勤務していたKAMIでは、オーナーたちが袂を分かつことを決めた。KAMIは複数の独立組織に分かれ、翌1997年には、我々も独立した。

第2に、我々はドイツの企業G-DataとOEM(相手先ブランドによる受注生産)契約を結び、アンチウイルスエンジンを供給し始めた。この契約は丸12年、我々がドイツの小売市場でトップになった2008年まで続いた。そのようにことが運んだのだった。我々の独自技術の力は止まらなかった。しかし、我々は何をしたのだろうか?我々(当時はまだ技術パートナーを積極的に探せていなかった)に話を持ちかけ、レミゾフ氏(KAMIのトップ)に提携を提案し、CeBITでの契約締結に至らしめたのはG-Dataであり、詳細はパート4で触れたとおりだ。我々の技術ライセンス事業は、このようにして始まったのだった。

ドイツ人(1995年)の次は、フィンランド人がやってきた。F-Secure(1996年)、当時の社名はData Fellowsだった。同社との提携が始まった経緯をお話ししよう。

1995年8月、Microsoft Wordの文書に感染する、世界初のマクロウイルスが出現した。マクロウイルスの作成がいたって容易であることが判明し、何も知らない多くの人々の間で、このウイルスは驚くべき勢いで広がっていった。これが他のウイルス作成者たちの注目を集め、マクロウイルスはアンチウイルス業界にとって深刻な頭痛の種となった。Word文書のフォーマットはとても複雑で、マクロウイルスの検知は容易ではなかった。そのため、アンチウイルス企業各社は何か月も試行錯誤を繰り返し、1996年の初めに、ようやくMcAfee(会社の方だ)がWord文書フォーマットの「正しい」逆アセンブル方法を発表した。このニュースを、1995年に入社していた同僚のアンドレイ・クルコフ(Andrey Krukov)がつかみ、すぐに的確で有効な技術的解決を考え出した。その成果を私が発表すると、たちまち各社がその技術を購入したいと持ちかけてきた。そうした話が複数あったため、我々は来るイベントですべての会社と会合の場を設けることにした。そのイベントは、1996年秋に英国のブライトンで開催されたVirus Bulletin Conference。アンドレイと私が現地に向かった。

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サイバーの あの日あの時 パート4:CeBIT

ついに、夏が来た。ずいぶん長くかかったものだ!だが、例年どおり喜ばしいことなのかどうか、よく分からない。まだ、自宅からのリモートワークが続いているからだ。確かに、世界各国で「緩和」は始まっているものの、我が社はことを急ぎはしない。思うに、他のIT企業もおそらく同じで、少なくとも秋までは在宅勤務を続けるだろうし、在宅態勢を年内いっぱい続けると表明している企業もある。言うまでもなく出張のキャンセルは続いているし、展示会やカンファレンスも、オリンピックやカンヌ国際映画祭といった大規模なイベントも、軒並み中止または延期になった。一部の国では、国境封鎖も続いている。

そういうわけで、我々はまだ閉じ込められたまま、外出もままならず、自宅に長時間引きこもっているせいで少々気が変になりかかっている。少なくとも大多数の人はそんな状況だろう。一方、空いた時間を有効に使い、普段より運動している人もいる。元気なことだ!私はその中間くらいで、代わり映えのない日々に飽き飽きすることもあれば、忙しくしていることもある。その中には、古い資料を引っ張り出して昔の写真を掘り出す時間も含まれるのだが、それが懐かしい思い出(さらに、世界の変化がいかに速いかの実感)につながり、次の『サイバーの あの日あの時』につながってくるのだ!

そう、この『サイバーの あの日あの時』シリーズは、サイバー関連の懐かしいあれこれと、私自身がサイバー関連の道を進む中で得てきた個人的な洞察と業界的な見識が入り混じったものだ。誰かの役に立つなり、誰かにとって興味深いものとなれば幸いだ。今回のパート4では、パート3始めたCeBITの話を続けることにする。

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サイバーの あの日あの時 パート3:1992年~199x年

パート1パート2を読んでいない方のために説明すると、この記事は、私の『サイバーの あの日あの時』年代記シリーズの第3回にあたる。ほとんどの人と同じように私もロックダウン措置の影響下にあり、いつもより時間があるので、サイバーセキュリティの記憶の小道を散策することができる。いつもならば飛行機に乗ってあちらへ、こちらへ、いたるところへ仕事に観光に飛び回っているので、そうした活動にほとんどの時間を取られてしまう。だが今はそうしたことが一切、少なくともオフラインや対面ではできない。そこで、その未消化の時間を一部活用してキーボードに向かい、個人的なこと、Kaspersky Labのこと、サイバーセキュリティの来し方を巡って思い出されるあれこれを綴っている次第だ。今回は90年代初頭から中盤までの話をしよう。

タイプミスがブランド名に

ごく初期のころ、我々のアンチウイルスツールはどれも「-*.EXE」というパターンで名付けられていた。たとえば「-V.EXE」(アンチウイルススキャナー)、「-D.EXE」(常駐モニター)、「-U.EXE」(ユーティリティ)という具合だ。最初に「-」を付けたのは、ファイルマネージャーでプログラムをリスト表示したときに我々のプログラムが一番上に来るようにするためだった(最初から技術おたく気質と冴えたPRのセンスを兼ね備えていたと言えないだろうか?)

後に最初の本格的な製品をリリースしたとき、その製品は「Antiviral Toolkit Pro」と名付けられた。普通に考えれば、略語は「ATP」となるべきだったが、そうはならなかった…

1993年の終わりか1994年の初め頃、過去の集まり(『サイバーの あの日あの時 パート1』を参照)で何度か顔を合わせたことがあり私のことを覚えていたヴェセリン・ボンチェフ(Vesselin Bontchev)氏から、彼が当時勤めていたハンブルク大学のウイルステストセンターでテストに使うので製品を1つ送って欲しいと頼まれた。快諾した私は、ファイルをzipにアーカイブするときにアーカイブの名前をうっかり「AVP.ZIP」としてしまい(本来なら「ATP.ZIP」だ)、気付かないままボンチェフ氏に送ってしまった。しばらくしてボンチェフ氏から、アーカイブを(一般の人も利用できるように)FTPサーバーに置いてもいいかと尋ねられ、そのときも応じた。1~2週間ほど経ってから、彼はこう言ってきた。「君のAVPはFTPでだいぶ人気になってきているよ!」

「AVPって何のこと?」私は尋ねた。
「”何のこと?”だって?君がアーカイブファイルで送ってくれたやつに決まってるじゃないか!」
「何だって?!すぐに名前を変更してくれないか…名前が間違ってるんだ!」
「もう遅いよ。もう公開されているし、皆AVPだと思ってるよ!」

こうして「AVP」が定着してしまったのだ!幸い、「Anti-Viral toolkit Pro」の略だ、ということで何とか切り抜けた(ある程度は)。それでも、やりかけたことはやりとおすべし。我々のツールの名前は、最初の「-」を取って代わりに「AVP」を付けた名前にすべて変更された。今でも、一部のモジュール名に使われている。

最初の出張—CeBITのためにドイツへ

1992年、アレクセイ・レミゾフ(Alexey Remizov)氏(私が最初に勤めたKAMIという会社での上司)が、私の初となる外国渡航用パスポートの取得を手助けしてくれ、ドイツのハノーバーで開催された展示会CeBITに連れて行ってくれた。KAMIは他のロシア企業数社と共同で、ささやかなブースに出展していた。我々のテーブルは半分がKAMIのトランスピューター技術に占められ、残り半分が我々のアンチウイルス製品の展示スペースだった。我々が得たのはわずかばかりの新規取引で、大したものはなかった。それでもなお、大いに有益な出張だった…

当時我々がCeBITで受けた印象は「なんと壮大な!」という感じだった。とにかく巨大だった!しかもドイツが再統一されてからまだそれほど経っていなかったから、我々にとっては西ドイツぽく感じられた—コンピューター資本主義の狂騒!まさに、カルチャーショックだった(その後、モスクワへ戻ったとき2回目のカルチャーショックを経験することになる。詳しくは後日)。

巨大なCeBIT会場の中で、我々の小さな共同ブースはほとんど注目されなかった。それでも、「足掛かりを得る」とか「最初の一歩が一番難しい」とかそんなような言い回しがある。その4年後、再びCeBITに足を運ぶことになった。今度は、欧州の(後に世界規模の)パートナーネットワークの構築を始めるために。が、それについてはまた稿を改めて取り上げることにする(特にこれから自分の事業という長旅を始めようとしている人たちにとって興味深い内容になると思う)。

ところで、その当時からすでに、我々のプロジェクトには少なくとも何らかのPRやマーケティングのサポートが切実に必要だと私は理解していた。しかし我々はそのとき、ろくに持ち合わせもない状態だったし、ジャーナリストからすれば聞いたこともない会社だったから、そうしたサポートを受けるのは難しかった。それでも、CeBITへの最初の出張の直接的成果として、自分たちについて自分たちで書いた記事をロシアの技術雑誌『ComputerPress』1992年5月号に掲載してもらうことができた。自家製のPRだ!

フィー、ファイ、フォー、ファム、英国人のお金の匂いがするぞ!

2回目の出張は、同年6月~7月の英国行きだった。この出張の成果も記事になり、今回は『Virus Bulletin』という雑誌に『The Russians Are Coming!』(ロシア人がやってくる)というタイトルで掲載された。外国の媒体に掲載されたのはこれが初めてだった。ちなみに、記事の中に「18人のプログラマー」というくだりがある。KAMI全体で働いていた人はおそらく18人いたのだろうが、我々のアンチウイルス部には我々3人しかいなかった。

1992年6月、ロンドン1992年6月、ロンドン

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サイバーの あの日あの時 パート2:1991年~1992年

これより、サイバー業界黎明期に遡る昔話の続きをしよう。先日投稿した第1回の記事では、私が生まれてはじめてウイルスをつかまえたときのこと、我々の最初のアンチウイルスツールのこと、私が独立して当時は現実に存在すると言えなかった職業、つまりフリーランスのアンチウイルスアナリストになると決めたときのことをお話しした。

さて、フリーランスになって数週間経った。基本的にほとんど何もしない数週間だった。顧客を1人も見つけられなかったからだ。またどこかの会社で正規の仕事に就かなければと思った。そこで何をしたかと言うと、仕事をオファーしてくれた民間企業3社の間での「入札」を企画した。

そのうちの1社(KAMI)については、それだけで1つの記事にできるくらい語れることがあるのだが、ここでは概要を紹介するにとどめる。KAMIは、かなり大規模な、非常に多角的に輸出入・その他諸々を手掛ける会社で、コンピューター部門も持っていた(この部門は最終的にKAMIから分離して独立した会社となった)。そこのボスがアレクセイ・レミゾフ(Alexey Remizov)氏だった。長年にわたり私を信頼し何かと力になってくれた素晴らしい人だ。

さて、入札の話に戻ろう。その3社のうち2社が「もちろんだとも。来週立ち寄ってくれ、きみのオファーを話し合おう」というような反応だったとすれば、レミゾフ氏は翌朝オフィスに来ないかと言い、その次の日には私のデスクとコンピューターのある場所に案内してくれ、初回分の前払い報酬を私の手に握らせ、私の「部署」の名前を「アンチウイルス部」(か何かそんなような名前)に決め、さらに2人の社員をあてがってくれた。

私が最初に取り組むべきタスクは、その2人の社員をクビにすることだった!単純に、仕事に合っていなかったのだ。そして私はこの初めてのタスクを何とかやり遂げた。感情的な言い合いにならず、円満に話がついた。2人とも、その仕事に「合わない」という私の考えに同感だったのだと思う。

さて、KAMIについてもう少し話そう(舞台は1991年だ)…

KAMIのコンピューター部には25人ほどのスタッフがいた。しかしながらコンピューターにかけられるお金は文字通りまったくなかった!したがって、立ち上げの資金は、インドから輸入した靴、チョコレートビスケット、車のアラームシステムの製造、TV信号をエンコードするシステム(有料TV向け)の売上から回されたものだった。実際にコンピューターITプロジェクトといえるのは、私のアンチウイルス部と、トランスピューター部だけだった。トランスピューター部は、当時KAMIの中で最も景気のいい部門だった。

ほかにこの時期のことで思い出せることは何だろう?

実際のところ、あまり多くはない。1日12~14時間働いていて忙しすぎたのだ。仕事以外のことに意識を向ける時間はなかった。政治のことについても。それでも、何かないだろうか…

最初のオフィスは…幼稚園(!)に間借りした。場所はモスクワ郊外の北西部にあたるストロギノだ。それから移転して科学技術博物館の一部を借りることになり、それからモスクワ大学構内へ移り、それからある研究機関へ、そこからまた別の場所へ移った。私たちはよく冗談を言ったものだ。「我々は昔、全部の学校に行ったよな。高校以外」。

ストロギノの最初のオフィスストロギノの最初のオフィス

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サイバーの あの日あの時 パート1:1989年~1991年

先日、第三者機関によるテストの結果を示すTOP3メトリックで今回も首位となったことについて記事を書いたところ、少々昔が懐かしくなった。その後、偶然にも、ILOVEYOUウイルスワームの発見から20年を迎えた。さらに懐かしく、また記事を書いた。ここでやめる理由はないな、と私は考えた。ほかにやることがそんなにあるわけでもない。ならば続けよう!そこで、これより、Kasperskyにまつわる思い出話を、ほぼ思いつくままに順不同で書いていこうと思う…

まずは、巻き戻しボタンを押して(80年代のラジカセに付いている、あれだ)、1980年代末の終わりごろ、まだ「Kaspersky(カスペルスキー)」が私の名字にすぎなかった頃に戻ろう。

パート1―有史以前:1989年~1991年

私は以前から、1989年10月を、後に私の職業となるものへ本格的に最初の一歩を踏み入れたときだと考えている。コンピューターウイルスのCascade(Cascade.1704)がOlivetti M24(CGA、20M HDD)上の実行可能ファイルに入り込んでいるのを見つけ、それを駆除したのだ。

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祝20周年!

※元の英語記事は2017年6月26日に公開されました。

サイバーセキュリティの年月は、風のように早い。

28年前、1989年秋のいつだったか、私のOlivetti M24がウイルスにやられた。この運命的な出来事が私(とその他大勢)の人生を変えた。あの日、あのウイルスが、誰のコンピューターを襲ったのか知っていたら、そしてその後10年にわたって私(後にKaspersky Lab社員)の手で消されることになる悪の末裔たちの数を正確に知っていたら、すぐに回れ右をして逃げ出していたに違いない。

26年前、1991年の夏のことだが、同じ志を持つコンピューター好きのグループが、今や世界トップクラスとなったセキュリティ製品の曽祖父を世に出した。

20年前のまさに今日、1997年6月26日。私の名前にちなんだ「Lab」が設立された。

だが、今日のオフィスはかなり静かだ。パーティーなし、シャンパンなし、何もなし。20周年の日なのに?心配ご無用。お祝いの予定はある。いつものように、型破りなやつだ。ただ、少し先の話というだけのことだ。今日はいつもと変わらぬ営業日。とはいえ、今晩、おいしい飲み物で乾杯し、何か言葉をいただけるのであれば、ぜひお願いしたい。きっと、何かしら良い意味でお返しがあるだろう!

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マサチューセッツの大雪と、Kaspersky Lab米国進出10周年

米国には数え切れないほど行った。

だいたいは短期間の滞在で数か所を回るだけだが、いつも後からおもしろい話をいろいろとお伝えしている。だが、今回はない!滞在中は仕事漬けの毎日だった。残念ながら、今回の記事に心躍るような楽しい話はないだろう。ただ、珍しい話題を少し…

まずは…雪の話だ!

…そう聞いて不思議に思った人もいるかもしれない。ロシア人が他の国の雪に興味を持つわけがない、と。毎日いやというほど見ているはずなのに?だが、それは違う。当地で、合衆国において、これほど降り積もった雪を見たのは生まれて初めてだ!反射的に、思わず怒りに駆られた。「そんな馬鹿な!雪といえばロシアの専売特許だ!勝手に使われては困る」。奇妙な一言しか出てこない。いや、もう一言。予想外だ。

雪害

Boston snow前日に訪れたエバーグレーズとは大違いだ

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史上初のスマートフォンマルウェアの登場から10年

2004年6月15日、正確にはモスクワ時間同日19時17分、コンピューターセキュリティの新時代の幕開けとなるできごとがあった。スマートフォン用に作成された初のマルウェアを当社が発見したのだ。

これはCabirというマルウェアで、NokiaのSymbian搭載デバイスに感染し、保護されていないBluetooth接続を介して拡散していた。コンピューターがマルウェアに狙われていることは、当時から誰もが(世捨て人や修道僧以外は)十分に知るところだったが、この発見によって、スマートフォンもマルウェアの標的となったことが世界に知れわたった。確かに、最初は多くの人が、「ウイルスが電話に感染するだなんて、そんなわけないだろう」と疑っていたものだ。だが、この件の単純な事実は、遅かれ(数年後10年後)早かれ(数か月後)、ほぼすべての人が理解することになる(いまだに気づいていない人も一部にはいるが)。その間に、当社のアナリストは歴史書に載るまでになった!

なぜ我々はこのマルウェアをCabirと名付けたのか?当社のモスクワ本社に、電波を遮断する特殊な実験室を作ったのはなぜか?CabirはどうやってF-Secure社員のポケットに入り込んだのか?こうした疑問を、当社のチーフセキュリティエキスパート、アレックス・ゴスチェフ(Aleks Gostev)に、イントラネットで実施したインタビューで聞いた。今回はその内容を皆さんに紹介しようと思う。このヒーロー饒舌な男の言葉を直接お伝えするのがいいだろう…

ちなみに、この話が本格的に始まるのは、Cabirの分析にこの2つのデバイスを使うところからだ。

私たちが解析に使ったNokiaのSymbian端末

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Kaspersky Lab、本社を移転

みなさん!

とても素晴らしい知らせがある!少なくとも、Kaspersky Lab の社員にとっては嬉しいニュースのはずだ。

15 年間の借り暮らしの日々が、ようやく終わりを告げる。そう、我々は本社となるビルを、3 棟購入した。長らくかかったが、やっと手に入れた。ともあれ、つい最近、モスクワ北西部のOktiyabrskoye Pole(英語で「October Field」という意味)にある旧オフィスから、最後の部署が引っ越しを済ませ、翌日には新しいオフィスへと出勤してきた。写真は、そのときの様子だ。総務部の社員と、部署のマスコットのゴムの木だ。

Kaspersky Labのモスクワ新オフィス

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