月ごとのアーカイブ:7月 2020

サイバーの あの日あの時 パート7:1997年(自分の名が付いた会社の創立)

今回は、我が社にとって特別な年までさかのぼってみよう—創立の年だ。登記簿謄本にあるとおり、創立は1997年6月26日だった。

そこで、我が社は創立記念パーティーを毎年6月7月に開いている(なぜ月が違うのかは聞かないでほしい)。ただ、今年は違う。パーティを開催しないのは、創立以来初めてのことだ。残念だが、どうすることもできない。

1年後の1998年、あまりぱっとしないボウリング場で開催した最初の創立記念パーティーのことを思い出す。翌年以降は、モスクワ周辺の自然いっぱいのところに場所を移した。来年、また同じ場所で開催できることを願うばかりだ。

1997年の夏といえば、こんな話もある。

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サイバーの あの日あの時 パート6:メディア対応のこと

先週ふと気づいたのだが、ロックダウンによる外出規制と自己隔離の生活は、もう1年の4分の1も続いている。自宅にこもる3か月の間、外出したのは、誰もいないオフィスに数回立ち寄ったときと、同様に隔離生活を続けている家族と週末ごとに別荘で過ごすときくらいだった。皆さんと同様、非日常の日常だ。私の場合、飛行機や空港とは無縁になり、ホテル滞在も会議もスピーチもなくなった。要するに、移動はほぼなくなったということだ。

ただし、何ごとも見方を変えてみることはできる。この3か月間、私たちは皆、2億3千万km以上(地球が太陽の周りを回る軌道の4分の1)を移動していたのだ!しかもこれは、太陽系そのものが驚異的な速度で動いているという事実を考慮に入れていない。ロックダウンが始まってからも対して変わっていないのは、業務上の会議だ。すべてオンラインに移行したにすぎない。もちろん、業務全般も通常どおりに動いており、生物学上のウイルスによる影響は受けていない。

だが、ロックダウンの話はこのくらいにしよう。皆さんも、もうこの話題には飽き飽きしていることだろう。というわけで、サイバー関連の思い出語りを続けることにする。今回は、新聞や雑誌、ラジオ、テレビ、さらには各種イベントで受けてきた取材の話だ。CeBITについての回想をまとめているとき(『サイバーの あの日あの時 パート4』を参照)、遠い昔のCeBITで「広報窓口」担当として1週間のインタビュー地獄を味わったことを思い出したのがきっかけになった。考えてみれば確かに、報道陣に対して、あるいは講演などで話をした面白い経験については、いろいろと語れることがある。そんな楽しい話、変わった話をいくつか紹介しよう。もちろん、何点かの写真も一緒に(明るさと画質を上げてある)。

メディアにまつわる話と言えば、規模も趣向もさまざまなあれこれが思い出される。ほとんど無人の会場も、満員のスタジアムも経験した。無名の小さな地方メディアから、誰でも知っている超大手の国際的メディアコングロマリットまで相手にしたことがある。有名大学で、あるいは専門技術者が集まる場で専門的な講義を行ったこともあれば、ドレーク海峡を越えて南極に向かう船の上で算術の不思議について形式張らない講演をしたこともある。私、ユージン・カスペルスキーにとって、さまざまなシチュエーションでの講演はお手のものだ。

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サイバーの あの日あの時 パート5:1996年(大変革の年)

今回も、我が社が控えめに創業してから今日の姿になるまでの歴史をさらに振り返ってみたい。ところで、この『サイバーの あの日あの時』シリーズが続いているのは、ロックダウンのおかげだ!そうでもなければ、こんな風にサイバー関連の思い出話をとりとめもなく続ける時間はなかっただろう。

このシリーズを初めてご覧になる方のために、これまでの記事はこのとおりだ。

パート1
パート2
パート3
パート4

では、パート5を始めよう。1996年。まさに運命的な分岐点となった年の話だ。

第1に、私が勤務していたKAMIでは、オーナーたちが袂を分かつことを決めた。KAMIは複数の独立組織に分かれ、翌1997年には、我々も独立した。

第2に、我々はドイツの企業G-DataとOEM(相手先ブランドによる受注生産)契約を結び、アンチウイルスエンジンを供給し始めた。この契約は丸12年、我々がドイツの小売市場でトップになった2008年まで続いた。そのようにことが運んだのだった。我々の独自技術の力は止まらなかった。しかし、我々は何をしたのだろうか?我々(当時はまだ技術パートナーを積極的に探せていなかった)に話を持ちかけ、レミゾフ氏(KAMIのトップ)に提携を提案し、CeBITでの契約締結に至らしめたのはG-Dataであり、詳細はパート4で触れたとおりだ。我々の技術ライセンス事業は、このようにして始まったのだった。

ドイツ人(1995年)の次は、フィンランド人がやってきた。F-Secure(1996年)、当時の社名はData Fellowsだった。同社との提携が始まった経緯をお話ししよう。

1995年8月、Microsoft Wordの文書に感染する、世界初のマクロウイルスが出現した。マクロウイルスの作成がいたって容易であることが判明し、何も知らない多くの人々の間で、このウイルスは驚くべき勢いで広がっていった。これが他のウイルス作成者たちの注目を集め、マクロウイルスはアンチウイルス業界にとって深刻な頭痛の種となった。Word文書のフォーマットはとても複雑で、マクロウイルスの検知は容易ではなかった。そのため、アンチウイルス企業各社は何か月も試行錯誤を繰り返し、1996年の初めに、ようやくMcAfee(会社の方だ)がWord文書フォーマットの「正しい」逆アセンブル方法を発表した。このニュースを、1995年に入社していた同僚のアンドレイ・クルコフ(Andrey Krukov)がつかみ、すぐに的確で有効な技術的解決を考え出した。その成果を私が発表すると、たちまち各社がその技術を購入したいと持ちかけてきた。そうした話が複数あったため、我々は来るイベントですべての会社と会合の場を設けることにした。そのイベントは、1996年秋に英国のブライトンで開催されたVirus Bulletin Conference。アンドレイと私が現地に向かった。

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サイバーの あの日あの時 パート4:CeBIT

ついに、夏が来た。ずいぶん長くかかったものだ!だが、例年どおり喜ばしいことなのかどうか、よく分からない。まだ、自宅からのリモートワークが続いているからだ。確かに、世界各国で「緩和」は始まっているものの、我が社はことを急ぎはしない。思うに、他のIT企業もおそらく同じで、少なくとも秋までは在宅勤務を続けるだろうし、在宅態勢を年内いっぱい続けると表明している企業もある。言うまでもなく出張のキャンセルは続いているし、展示会やカンファレンスも、オリンピックやカンヌ国際映画祭といった大規模なイベントも、軒並み中止または延期になった。一部の国では、国境封鎖も続いている。

そういうわけで、我々はまだ閉じ込められたまま、外出もままならず、自宅に長時間引きこもっているせいで少々気が変になりかかっている。少なくとも大多数の人はそんな状況だろう。一方、空いた時間を有効に使い、普段より運動している人もいる。元気なことだ!私はその中間くらいで、代わり映えのない日々に飽き飽きすることもあれば、忙しくしていることもある。その中には、古い資料を引っ張り出して昔の写真を掘り出す時間も含まれるのだが、それが懐かしい思い出(さらに、世界の変化がいかに速いかの実感)につながり、次の『サイバーの あの日あの時』につながってくるのだ!

そう、この『サイバーの あの日あの時』シリーズは、サイバー関連の懐かしいあれこれと、私自身がサイバー関連の道を進む中で得てきた個人的な洞察と業界的な見識が入り混じったものだ。誰かの役に立つなり、誰かにとって興味深いものとなれば幸いだ。今回のパート4では、パート3始めたCeBITの話を続けることにする。

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