2020年7月15日
サイバーの あの日あの時 パート6:メディア対応のこと
先週ふと気づいたのだが、ロックダウンによる外出規制と自己隔離の生活は、もう1年の4分の1も続いている。自宅にこもる3か月の間、外出したのは、誰もいないオフィスに数回立ち寄ったときと、同様に隔離生活を続けている家族と週末ごとに別荘で過ごすときくらいだった。皆さんと同様、非日常の日常だ。私の場合、飛行機や空港とは無縁になり、ホテル滞在も会議もスピーチもなくなった。要するに、移動はほぼなくなったということだ。
ただし、何ごとも見方を変えてみることはできる。この3か月間、私たちは皆、2億3千万km以上(地球が太陽の周りを回る軌道の4分の1)を移動していたのだ!しかもこれは、太陽系そのものが驚異的な速度で動いているという事実を考慮に入れていない。ロックダウンが始まってからも対して変わっていないのは、業務上の会議だ。すべてオンラインに移行したにすぎない。もちろん、業務全般も通常どおりに動いており、生物学上のウイルスによる影響は受けていない。
だが、ロックダウンの話はこのくらいにしよう。皆さんも、もうこの話題には飽き飽きしていることだろう。というわけで、サイバー関連の思い出語りを続けることにする。今回は、新聞や雑誌、ラジオ、テレビ、さらには各種イベントで受けてきた取材の話だ。CeBITについての回想をまとめているとき(『サイバーの あの日あの時 パート4』を参照)、遠い昔のCeBITで「広報窓口」担当として1週間のインタビュー地獄を味わったことを思い出したのがきっかけになった。考えてみれば確かに、報道陣に対して、あるいは講演などで話をした面白い経験については、いろいろと語れることがある。そんな楽しい話、変わった話をいくつか紹介しよう。もちろん、何点かの写真も一緒に(明るさと画質を上げてある)。
メディアにまつわる話と言えば、規模も趣向もさまざまなあれこれが思い出される。ほとんど無人の会場も、満員のスタジアムも経験した。無名の小さな地方メディアから、誰でも知っている超大手の国際的メディアコングロマリットまで相手にしたことがある。有名大学で、あるいは専門技術者が集まる場で専門的な講義を行ったこともあれば、ドレーク海峡を越えて南極に向かう船の上で算術の不思議について形式張らない講演をしたこともある。私、ユージン・カスペルスキーにとって、さまざまなシチュエーションでの講演はお手のものだ。
ということで、まずはここから始めるのが、理屈としては良さそうだ。
私はどういうわけか、メディア活動の重要性と必要性については、最初から—1990年代の初めから—直感的に認識していた。だから、自分のできることをやった。コンピューター雑誌に載る記事を書き、カンファレンスでは初めてちょっとしたスピーチもした。だが、どれもささやかなものにすぎなかった。私はもっと多くを求めていたし、間違いなく「もっと」必要であることが分かっていた。
当時はまだ、アンチウイルスの話題が、深刻な響きを帯びた「サイバーセキュリティ」という言葉では呼ばれていなかった。言ってみれば子どものお遊びのようなもので、プロフェッショナルではなく、大の大人が手がけるようなものではないという認識だったのだ。しかし私は、どういう訳かその見方は正しくないと感じていて、サイバー世界の不正との闘いは始まったばかりだと考えていた。横行しているのは単なる「コンピューターペスト」ではなく、自己承認を求める独学のティーンエイジャーがウイルスを作り出しているだけでもなかった。背後にスキルの高いプロがいることもあったが、目的は金銭ではなかった(当時、インターネット上にお金はなかったしインターネットでの金銭の授受もなかった)。目的はむしろ、自分が何か「偉大な」存在であることを証明したいという不可思議な欲求を満たすことにあった。故に、これらは「サイバー犯罪」と呼べるようなものではなく、単なる「サイバーフーリガン行為」(あるいは「サイバー幼児性」)でしかなかったのだ。
コンピューターウイルスとアンチウイルス技術、そしてウイルスと闘うためのテクノロジーについて必要なことをすべて話す必要性を特に強く覚えたのは、CeBIT 1992の後、海外で開かれる世界的なIT展示会に私が初参加した後のことだ。「皆に知ってもらわなければ!」という考えに取り付かれていたが、当時はメディアの誰も興味を示さず、社会全般の関心もほとんどなかった。アンチウイルスというものは新しすぎたのだ。そこで私はどうしたか?自分で自分を取材したのだった!質問を書き出してそれに答え、ロシアの『Computer Press』誌に送ったところ、この質疑応答(インタビュー)が1992年5月号に掲載された。
この自作自演のインタビューで、私は予言めいたことを語っている。当時のロシアのコンピューター業界にとって有望なのは、最終製品を作って売ることではなく(当時は不可能だった)、西側のものであれ東側のものであれ製品の中に入る技術を開発することだと語っているのだ。実際、5年後にはそのとおりになる。我々は、アンチウイルスエンジンを(フィンランドの企業に)ライセンス供与し、それが我が社最大のビジネスになっていた。我々が生き残れたのは、そのライセンス事業があったからだった。新技術開発への投資に必要な収益を稼ぎ出し、製品構成を微調整し、後にグローバル市場で優勢となることができたのは、ライセンス事業のおかげだ。セルフインタビューで望みを語るときは、慎重に。
『Computer Press』誌の記事を皮切りに、私のメディア活動は増える一方だった。この年も、その後さらにいくつかの記事に関わっている。一つは比較的短い記事で、2人の同僚と私がインタビューに答えているが、最初の自作Q&Aと同様に予言的な内容だ。掲載されたのは英国の『Virus Bulletin』誌で、タイトルは『The Russians Are Coming!(ロシア人がやってくる!)』。…なかなかのジョークだ。肝心なのは、タイトルどおりだということだ。我々はやってきたのだ!2007年まで早送りすると、我が社の売上は英国のアンチウイルス企業Sophosを上回った。Sophosは、『Virus Bulletin』誌の創設母体であり所有者でもある企業だった。人をからかうときは、慎重に。
こうして私の活動は続いていった。
1994年、ハンブルク大学が主催した世界初の大規模なアンチウイルスプログラム国際テストで、我々は賞を取った。この受賞自体が素晴らしい成果だったが、各種の専門誌で取り上げられたのは特大ボーナスだった。このころから、我々はCeBITにレギュラー参加するようになり、さらには、他国のPRプラットフォームにもおそるおそる進出し始めた。たとえば英国では、2つのエピソードが特に記憶に残っている。
1つめは、正確にいつのことだったかまでは覚えていない。1999年のあるとき、思い切って英国の報道機関向けにプレスツアーを企画した。招待状を送り、ロンドンのホテルに会議室を予約して、現地に飛んだ。期待は大きかったが、思いどおりにはいかなかった。次々と訪れる報道陣のほぼ全員が、異口同音にこう聞いてきたのだ。「イギリスにはすでにSymantec、McAfee、Trend Microが参入していて、国内企業のSophosもあります。御社の需要があるのでしょうか?」
これは痛い。我々としては、自社独自の—より優秀な—技術について話すしかなかった。大きな脅威であるポリモーフィック型のコンピューターウイルスを、どこよりも高い精度で捕捉できること。感染ファイルがないかどうか、アーカイブやインストーラーの内部を徹底的に深くまで検索できること(ここまでできる企業はなかった)。そして何より、当時のITセキュリティ担当者にとって一番の頭痛の種だったマクロウイルスをブロックする、完全に独自のテクノロジーのこと。「ああ。なるほど。興味深いですね(ペンはどこだっけ)。何でしたっけ、その…ポリマクロモーフィック何とやらは?!」
英国で起きた印象的な出来事の2つめは、もう少し後のことだ。2000年、ロンドンで開催されたサイバーセキュリティカンファレンスInfosecurity Europeで、厚かましくもプレゼンテーションに臨んだときのことだ。事前に告知し、部屋も予約し、我々は「群衆」の来訪を待ち構えていた。いざ、ふたを開けてみると、私のスピーチを聞きに来たのは2人だけ。後に判明したところでは、どちらも旧知のVirus Bulletinの記者だった。それでもやめずに、最新のサイバー犯罪事情を2人に説明し、サイバーセキュリティが近い将来どうなるかという予測も示した。会場が100人ものオーディエンスで埋め尽くされている、そんなつもりで臨んだ。
ロシアにはこんな諺がある。「1枚目のパンケーキは決まって焼きすぎ」―ロンドンで私が初めて挑んだパフォーマンスが、まさにそれだった。だが、最初の1枚をひっくり返すのが無駄に終わるとは、誰も言ってくれなかった。この経験は、正しい方向—すなわち、真剣なPRとメディアの仕事—へと踏み出した、最初の、そして必要な一歩だった。(実は、1枚目のパンケーキをひっくり返す様子を目撃していた人たちから、部屋がほぼ空っぽだったのはプレゼンテーションの時間帯がランチタイム近くだったからだと教えてもらった。皆、サイバーセキュリティよりお腹のことばかり考えていたのだ!この失敗で得た学びから、翌年はもっといい時間帯を選んだ。おかげで、壁際から通路まで立ち見が出るほどの盛況となった。
ロンドンでの一件以来、私は講演を続けている。ときには小さい部屋で、ときには、2018年2月に開催されたBosch Connected Worldのように巨大なホールで。
そして言うまでもなく、講演の場は、会社の発展につれて地理的に広がっていった。それは、至るところにサイバー犯罪が存在するからだ。サイバー犯罪のあるところに、我々は駆けつける。米国も例外ではない。
2000年代のある年にサンフランシスコで開かれたRSAカンファレンスについても、おかしな話がある。私は、必要以上に早く会場入りするのが、あまり好きではない。近くをぶらぶらしてから、(できるものなら)数分前に会場入りしたいのだ。だが、このRSAのときは戻るのが遅くなってしまい、警備員が私を入れてくれなかった。「満員です!」。どうやら、私を一般参加者だと思ったらしい。「いや、私がスピーカーなんですよ」。急いで確認した後に彼は納得し、ようやく私を通してくれたのだった。
もう一つ忘れられないのが、2001年のVirus Bulletinカンファレンスの話だ。このときは、カンファレンス全体のトーンを決めるオープニングの基調講演を依頼された。そう頻繁にある依頼ではないので、私はただのスピーチ以上のことをしようと決めた。何か…とんでもないことを…
そこで、2人の同僚と一緒にちょっとしたショーを披露した。カルト的人気を誇る『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のオルタナティブ版—コンピューターウイルス版を演じたのだ。マーティ・マクフライ、ドク、デロリアン、その他諸々が登場する。ショーは大受けした!観客は腹が痛くなるまで笑い転げた(観客が文字どおり腹をよじっていたのを私は見た)。不思議なことに、我々の基調講演「オルタナティブな歴史およびその他諸々をフィーチャーしたITセキュリティのどたばた劇」以降の数年間、Virus Bulletinカンファレンスの基調講演は行われなかった。
我々が演じた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の詳細は、こちらにある。
私がこれまでにスピーチした中で最も大観衆だったのは、中国でのイベントだった。これについても、なかなかのエピソードがある。我が社の中国オフィスの責任者がコンサートを企画し、中国のトップ歌手を何人も招待した。ほぼ満員になったコンサート会場はBeijing National Stadium(北京国家体育場)。そう、オリンピックで使われた、「鳥の巣」と呼ばれるあの独特なデザインのスタジアムだ(偶然にも、2008年北京オリンピックの1年後だった)。人気の歌手たちに加え、あのジャッキー・チェンも数曲を披露した。ひと言で言うと、「すごかった」。そして、このすべては我らが「卡巴斯基」(「Kaspersky」の中国語表記)の冠で開催されたのだった。
イベントの中盤、私は会場の中央に置かれた舞台に上がって手短なスピーチをすることになっていた。ご来場ありがとうございますとか、そんな挨拶だが、何しろ相手はスタンドを埋め尽くす7万人以上だ。そこで私は、中国の伝統的な上着を着て、たっぷり汗をかきながら、感謝の意を表した。だが、ここでトラブルが発生する。私の経験上最大の観客を前にして、手違いが起きたのだ。
当初、私は感謝の言葉をロシア語で語り、テレビの司会者がそれを中国語に通訳する手はずだった(実際には、私が話す内容はあらかじめ翻訳されて、司会者の手元のメモに書かれていた)。リハーサルは、すべて手はずどおりに進んだ。ところが、他の国からも来賓があるので私は英語を話したほうがいい、という意見が出てきたのだ。私はロシア語のままでいくと主張したが(ロシア大使も参列するはずで、大使もその方が気に入ったに違いない)、中国側は強硬だった。そうして、私の15秒30秒の晴れ舞台の時間になった。私と司会者が舞台に上がり、2人の顔が大スクリーンに映し出される。私は「Thank you」に続けて感謝の言葉を発し、通訳されるのを待った。ところが、司会者の口から出たのは「それで、ロシア語では?」という言葉だった。司会者は、筋書きの変更を聞かされていなかったのだ。不可抗力だが、何ということだ! メモの言葉が、私のアドリブの英語(のようなもの)と一致しない。我々は戸惑い、それぞれ「しまったー」(年齢制限を配慮した婉曲表現と考えてほしい)と思いながら、目を見開いたまま、ただ見つめ合った。この時間は永遠にも感じられた。幸い、誰も気に止めていないようで、盛大な拍手喝采が上がっている。
だが、最終的には何とかつじつまを合わせた。私はようやく「Ah – pa-russky?(ああ…ロシア語ね)」と言い、そのまま同じ内容の短いスピーチをロシア語で続けた。司会者は目に安堵の色を浮かべ、すぐに中国語へ「翻訳」していった。ふー、終わった。我々は満面の笑みを交わし、お辞儀をして退場した。VIPスタンドまで戻ったとき、私の緑色の上着は、絞れるほど汗びっしょりになっていた。
この話の後では、何を持ってきても拍子抜けになりそうだ。だが、まだもう少し話したいことがある…
たとえば、2010年にキプロスで開かれたSecurity Analyst Summit(SAS)のときのことだ。私はテレビの取材を、なんと海で受けたのだった!私の思いつきではない。ドイツ人ジャーナリスト2人のアイデアだった。
以下の写真は別のテレビの取材を受けたときで、場所はカンクンのビーチだ(この地ではカンファレンスを立て続けに3回開催した)。不満はなかった。狭苦しいオフィスやカンファレンスセンターより、こちらの方がいい。
それから、普通ではない状況での取材もあった。カメラが回っている以上は、やるしかない。2019年の夏、千島列島でのボートツアーのときがそうだった。海豹島でロシア極東関連の映画を撮っている米国のブロガー兼ドキュメンタリー製作者の一団から取材を受けたのだが、無数のウミガラスが鳴き騒ぐ中での取材だった。
現代アートの国際グループを乗せて南極に向かう観測船「Akademik Sergey Vavilov」の船上で講義をしたこともあった。空き時間がたくさんあったので、夜になると歌い、昼間はお互いに興味深い話をして過ごした。私の番になったとき、1回目には思いがけないサイバー被害の話をしたが、次の回には算数のクイズで頭の体操をしてもらった。「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10を使って2017を作る」という問題だ。アーティストの皆さんは、1回目の話で衝撃を受け、2回目のクイズでは—かなり驚いていた。
私のメディア活動に関しては、一風変わった環境や状況での話がほかにもあるのだが、続けるには写真の山をさらに掘り進まなければならない。ロックダウンの最中とはいっても、思いのほか時間が自由に使えるわけではないのだ。実際、かなり忙しい。ロックダウン中の3か月間にも、世界各地のジャーナリストから10本のオンライン取材を受け、記者会見に2回参加し、5つのイベントで話をした。そのイベントのうち、アルゼンチンのITカンファレンスには南米から3万人の参加者があった。皆、自宅からの参加だった!