2020年7月21日
サイバーの あの日あの時 パート7:1997年(自分の名が付いた会社の創立)
今回は、我が社にとって特別な年までさかのぼってみよう—創立の年だ。登記簿謄本にあるとおり、創立は1997年6月26日だった。
そこで、我が社は創立記念パーティーを毎年6月7月に開いている(なぜ月が違うのかは聞かないでほしい)。ただ、今年は違う。パーティを開催しないのは、創立以来初めてのことだ。残念だが、どうすることもできない。
1年後の1998年、あまりぱっとしないボウリング場で開催した最初の創立記念パーティーのことを思い出す。翌年以降は、モスクワ周辺の自然いっぱいのところに場所を移した。来年、また同じ場所で開催できることを願うばかりだ。
1997年の夏といえば、こんな話もある。
会社の登記に先立って難航したのが、社名の決定だった。私の元妻であり、ビジネスパートナーでもあったナターリア・カスペルスキー(Natalya Kaspersky)は「Kaspersky Lab」という名前を提案したが、私としては、あまり自分の名字は使いたくなかった(あまりにも謙虚で内気なもので。冗談だが)。しかし、歴史が示すとおり、結局はそのとおりに決まった。そのときナターリアは言った。(私たちの)姓はもうそれなりに知られている(我々の初期の製品がリリースされてしばらく経っていたし、私の書いた記事が雑誌やインターネットに載り、講演などのメディア活動も増えていた)。こんな「良いスタート」が切れているのだから、これを利用するのは大いに意味がある—まったく無名の新しいブランドで始めるより広告宣伝の費用がかなり抑えられる。だから、自分としてはこれがベストの提案なのだ、と。私はこの言葉に、最終的に説得された。異論があるなら、もっといい代案を出さねばならなかったが、私に代案はなかったのだ。
それでも、社名や製品名やサービス名として自分の名前が使われるのを聞くたびに、少しばかりぞっとするような感じを覚える。まったく気にならなくなる日が来るのか、私には分からない。理由は不明だ…そういえば、我が社の名前がフルネームで(現在は「Kaspersky」、以前なら「Kaspersky Lab」)表記されている文章を目にしたなら、それはほぼ間違いなく私が書いたものではない。このブログでは、私が自分の名字社名をフルで表記したことはほとんどない。いつも「K」(以前なら「KL」)と書いてきた。確かに、変わった製品名やサービス名を挙げるときなら、初出のところで1回だけ全表記するかもしれないが、それ以外は…結構だ。(訳注:日本語版では、便宜上「K」「KL」ではなく「Kaspersky」の表記を使用しています)
失礼、話がそれてしまった。
どこまで話したのだったか…そう、1997年。KLの登記直前で、自信たっぷりで楽観的だったころの話だ。
サイバーセキュリティ/ソフトウェアについてと、それを売ること(ロシア、ヨーロッパ、米国ですでに販売していた)に関しては、自信があったし楽観的だったが、法律関連となるとさっぱり分からなかった。たとえば、会社の登記方法も知らなかった。幸い、当時の隣人が手を貸してくれた。その人はその方面に詳しく、必要な書類をそろえてくれ、地元の法務局にも同行してくれた。残念ながら、法務局へ行ったときの写真は1枚も残っていない。いや、もともと写真は撮っていなかったのだろう。大した開業資金もない小さな新会社が今のような大企業になるとは、誰が知っていただろう?我々は思いもしなかった。1997年よりも前に、私は我々のミッションを宣言した。「世界最高のアンチウイルス製品を作ること」。だがそのとき、約30か国の拠点に4,000人以上の社員を抱えるグローバル企業を思い描いていたわけではない。1997年、我々はただ収支を合わせようと必死だった。投資してくれる人も、投資してくれそうな人もいない。運もない。あるのは重労働だけだった!
登記が済んでからの何か月間かは、まさに身を粉にして働く日々だった。「祈りながら生きている」(そう、あの歌のように!)と感じることもあり、定期的な収入とは無縁だった。Sophosとの契約は終了していた。フィンランド企業(Data Fellows、後のF-Secure)からの入金はまだ始まっていなかった(資金の融通はしてくれた)。それでも、毎月15人分の給与を支払わなければならない。こうしたことから、初期の社員への給与支給は期日どおりになされなかった。雰囲気は険悪になりかけていて、ある日ナターリアがランチから戻ると、社員の一団がナターリアの部屋を囲んで「我々はビールが飲みたい!」というプラカードを出していたこともあった。そのくらい事態は悪くなっていた。それでも何とか日銭を稼ぎ、業績が最悪に落ち込んだときには少々遅延しながらも、どうにか皆に給与を払っていた。
しかし、創立初期にはポジティブなこともたくさんあった。
我々は、2つめの大きな前進を果たした(最初の前進は、1994年以降、第三者テスト機関によるアンチウイルス製品テストで常に上位に入っていたことだ)。ロシアのアンチウイルス市場(特に家庭向けアンチウイルス市場)でDialogScienceの独占状態が崩れ、我々は徐々に市場リーダーの地位を獲得していった。最大の要因は、Windows版を開発した(ついに!)ことだった(非常に省リソースで簡便でもあった)。他社はまだMS-DOS版しか出していなかった。また、我が社の製品が「無料で」宣伝されたのも後押しとなった…モスクワ郊外にあるガルブーシュカ(電脳ビル)のような評判よろしからぬ場所で、海賊版CDが売られていたのだった(その隣にある森の中で売られていたこともある。週末になると露店が建ち並び、ありとあらゆる何かの海賊版を売っていた)。
ちょっと待った、海賊版ソフトウェアが「後押し」になった?そのとおりだ。1990年代の海賊たちは、我が社の製品を勝手にコピーし、流通させ、販売していた(だが我々の利益にはならなかった)。そして、露店でもそこらの売店でも、我が社の製品を、我が社の製品だけを勧めていた!あるとき誰かが我が社の製品が入った海賊版のフロッピーを持ってきたのを覚えている。フロッピーには「世界で最もクールなアンチウイルス」と書いたシールが貼られていた。
小売市場のもう一方、まっとうな(利益のある!)ところでは、政府関連の大規模な組織が、ときどき我が社に注目するようになった。我が社のアンチウイルス製品は、大規模で複雑な企業ネットワークでの利用を想定していなかったが、それでも「ウイルス駆除ツール」の1つの選択肢として購入された。大量購入ではなかったが、こうした初期の購入は、重要なエンタープライズ級ソリューションのセグメントに進出する最初の一歩になった。
続く…!
追伸:これまでのストーリーをまだ読んでいない皆さんのために。過去の回は以下のとおりだ。
サイバーの あの日あの時 パート1:1989年~1991年
サイバーの あの日あの時 パート2:1991年~1992年
サイバーの あの日あの時 パート3:1992年~199X年
サイバーの あの日あの時 パート4:CEBIT
サイバーの あの日あの時 パート5:1996年(大変革の年)
サイバーの あの日あの時 パート6:メディア対応のこと