2020年5月28日
サイバーの あの日あの時 パート2:1991年~1992年
これより、サイバー業界黎明期に遡る昔話の続きをしよう。先日投稿した第1回の記事では、私が生まれてはじめて魚ウイルスをつかまえたときのこと、我々の最初のアンチウイルスツールのこと、私が独立して当時は現実に存在すると言えなかった職業、つまりフリーランスのアンチウイルスアナリストになると決めたときのことをお話しした。
さて、フリーランスになって数週間経った。基本的にほとんど何もしない数週間だった。顧客を1人も見つけられなかったからだ。またどこかの会社で正規の仕事に就かなければと思った。そこで何をしたかと言うと、仕事をオファーしてくれた民間企業3社の間での「入札」を企画した。
そのうちの1社(KAMI)については、それだけで1つの記事にできるくらい語れることがあるのだが、ここでは概要を紹介するにとどめる。KAMIは、かなり大規模な、非常に多角的に輸出入・その他諸々を手掛ける会社で、コンピューター部門も持っていた(この部門は最終的にKAMIから分離して独立した会社となった)。そこのボスがアレクセイ・レミゾフ(Alexey Remizov)氏だった。長年にわたり私を信頼し何かと力になってくれた素晴らしい人だ。
さて、入札の話に戻ろう。その3社のうち2社が「もちろんだとも。来週立ち寄ってくれ、きみのオファーを話し合おう」というような反応だったとすれば、レミゾフ氏は翌朝オフィスに来ないかと言い、その次の日には私のデスクとコンピューターのある場所に案内してくれ、初回分の前払い報酬を私の手に握らせ、私の「部署」の名前を「アンチウイルス部」(か何かそんなような名前)に決め、さらに2人の社員をあてがってくれた。
私が最初に取り組むべきタスクは、その2人の社員をクビにすることだった!単純に、仕事に合っていなかったのだ。そして私はこの初めてのタスクを何とかやり遂げた。感情的な言い合いにならず、円満に話がついた。2人とも、その仕事に「合わない」という私の考えに同感だったのだと思う。
さて、KAMIについてもう少し話そう(舞台は1991年だ)…
KAMIのコンピューター部には25人ほどのスタッフがいた。しかしながらコンピューターにかけられるお金は文字通りまったくなかった!したがって、立ち上げの資金は、インドから輸入した靴、チョコレートビスケット、車のアラームシステムの製造、TV信号をエンコードするシステム(有料TV向け)の売上から回されたものだった。実際にコンピューターITプロジェクトといえるのは、私のアンチウイルス部と、トランスピューター部だけだった。トランスピューター部は、当時KAMIの中で最も景気のいい部門だった。
ほかにこの時期のことで思い出せることは何だろう?
実際のところ、あまり多くはない。1日12~14時間働いていて忙しすぎたのだ。仕事以外のことに意識を向ける時間はなかった。政治のことについても。それでも、何かないだろうか…
最初のオフィスは…幼稚園(!)に間借りした。場所はモスクワ郊外の北西部にあたるストロギノだ。それから移転して科学技術博物館の一部を借りることになり、それからモスクワ大学構内へ移り、それからある研究機関へ、そこからまた別の場所へ移った。私たちはよく冗談を言ったものだ。「我々は昔、全部の学校に行ったよな。高校以外」。
ストロギノの最初のオフィス